K* Kiss
Kissは愛のしるし。韓流ドラマなど見るとその時間の長いこと長いこと。韓国の方達はロマンティックなのかな?と思わされます。けれどキスは男女の愛の場面だけではありません。人は好きなもの、カワイイものを見ると思わずキスしたくなりますよね。私には4人の弟がいました。末の弟が赤ちゃんのとき、兄達があまりにもカワイイ、カワイイとキスするので赤ちゃんの肌が荒れていました。キスをしないようにと母がよく怒っていたものです。
さて聖書には”キス”この愛の行為でイエス様は裏切られたのだと書かれています。信頼され、弟子たちの金庫番をしていたユダ。彼はそれを私的に流用していました。また、イエス様が自分の思い通りの行動をとらなかったため、謀を企てイエス様を追い込んでいきます。政治的指導者に近づき、軍の先頭を歩いてイエス様を捕らえにきます。ユダは、イエス様がこの時、奇跡的な力で軍隊を打ち負かし、ついには大ローマ帝国からの解放運動に立ち上がってくれるのではないか?そう目論んでいたのかもしれません。先頭で軍を誘導したユダは、イエス様の頬に口づけすることで、(この人がイエスである)と軍人達に合図をおくります。こうしてイエス様の十字架への道のりは始まっていきます。まさに愛(であるはず)の行為で、イエス様は裏切られていくのでした。
またイエス様は、ある一人の父親のたとえ話をします。2人の息子がいました。弟は田舎の生活を嫌い、早々に父からの莫大な遺産を 譲り受けると 都会へと旅立っていきます。「オレは、必ず成功してみせる!」胸に大望を抱きながら都会に出るものの、誘惑に負け、悪い友達と遊び、財を使い果たしてしまいます。さらに泣き面にハチと言いますか、その街は飢饉に襲われます。「金の切れ目は縁の切れ目」を彼は経験します。友は去り、彼を相手にする人は何処にもなく、哀れな姿に身を落としてゆきます。しかしその時彼は気づくのです。(自分にはあの優しい父がいたじゃないか。お父さんに会いたい。。。)彼は気がつくとトボトボと故郷のあの家に向かって歩いていたのでした。(もう父に顔むけできない、会ったらいったい何を言えばいいんだ)そんな気持ちで歩き続け。。。いよいよ、家が近づいてきた時でした。向こうから老人が足を引きづるように走って来ます。最初、それが誰かわかりませんでした。しかし気づきます。それは父親でした。長い年月。。。父は、息子が立ち去ったあの日から、一日千秋の思いでその帰りを待ち続けていました。汚れて変わり果てた息子の姿、誰がわからずとも、父は遠くからすぐに息子だとわかります。走り寄る父は、息子を抱きしめると何度も何度もその頬に口づけしました。
ほとばしり溢れる愛、父なる神様とはこの父親のような方、そうイエス様は教えておられます。普通ではありえない、無条件の愛で私たちが愛されていることがわかります。人は裏切り去っても、父なる神様はそうではない。神様が愛であることをイエス様はあらゆるところで教えて下さいました。