熊本白川教会 月報 9月号より
「わたしについてきなさい」 マタイによる福音書4:18~22
~138年前の愛のパッション〜 熊本白川教会100年史を見る時に、138年前にC.S.ロング宣教師と飛鳥賢次郎牧師の働きによってスタートを切ったことがわかる。キリスト教禁令の立て札が撤去されて、まだ、10年しかたっておらず、迫害はひどいものであった。
飛鳥牧師が、安己橋通り沿いの店頭を借りて路傍伝道を始めると石を投げつけられ暴行を受けた。しかし、彼は血を流しながらも怯むことなく福音を語り続けた。その勇ましさに取り巻く人々は感動を与えたと言う。警察がやって来て、暴行をした者たちを逮捕するとなんと僧侶たちであった。警察の留置場に入れられた彼らであったが、飛鳥牧師は冬の寒さを思い、自分の毛布をすぐさま彼らに差し入れた。愛といたわりを持って接したのである。そして、罪に問われることがないようにと警察を必死になって説得した。僧侶たちは、いたく感動し、そして、反省をしたのである。次の日、罪に問われることなく、僧侶たちは警察を出ることを許された。その後、彼らは罪をお詫びしに飛鳥牧師を訪ねたのである・・・。
先日の礼拝説教のなかで、最後に語った証しである。われらの教会の創立者の中にキリストの愛を見る。私は牧師として、四年目を迎えるが、この様な溢れる聖霊による愛に満たされたいと主に願う。今、懸命になって教会員と共に教会形成に取り組んでいる。コロナ禍であって、意気阻喪することもあるが、必ず、主にあって勝ち抜いて行きたい。主が、主の戦いを勝ち取って下さると信じるものである。今、中国の方々への伝道が再び活発に始まった。将来は青年対象の夕礼拝も始めたい。韓国の宣教師がコロナ禍で来られなくなっているが、そう遠くないうちに来られるようにとも祈る。新しい伝道への情熱(パッション)を抱きたいのだ。いつまでも、閉じこもってばかりではいられない。出来ないことばかりを数えるのではなく、主に頼りつつ、攻勢に転じたい。心の思いが天に届いている。祈りにならない祈りを主は聴いていて下さることに感謝を捧げる。確実に、確実に、主のお働きは私たちの弱さを用いてでも進むのである。
さあ、飛鳥賢次郎牧師のように励もう。「主よ、私たちを聖なる霊に満たし給え!」と祈ろうではないか。 聖書を読むと、主イエスがペテロをアンデレをヤコブをヨハネを召された(弟子とするために呼ばれた)ことが、明瞭に書かれている。主が呼ばれたのだ。主が必要とされたのだ。ペテロは教会の礎となった。アンデレはXの形をした十字架刑に処せられたが、何日もその上から福音を語り続けたという伝説がある。また、ヤコブは最初の教会の殉教者として使徒行伝に名をとどめている。そして、ヨハネは12弟子の中で一人永眠したと言われ、パトモス島でヨハネの黙示録を書きあげたとも言われる。皆その生きざまは違う。主によって置かれた場所は異なる。しかし、だれも不平を言わず主の情熱に動かされ愛に生きたのであった。
人の前に生きる。人との比較の中で生きることは空しいことだ。神様の前を主イエスのまなざしを意識して生きること、そこにこそ、本当の価値がある。 私は飛鳥賢次郎牧師を存じ上げなかった無知を嘆く。でも、歴史の中で主イエスについて行って、尊い働きをされた無名の聖徒たちの偉大さに深く心動かされるものである。