熊本白川教会 月報 11月号より
「宗教改革を再び∼その熱き信仰の継承」
約500年前、マルチン・ルターが「95か条の論題」をヴィッテルベルク城教会の城門に掲示した。このことが印刷技術の発展に伴い、全ヨーロッパに影響を与えたのである。特に、サン・ピエトロ大聖堂の建築のために多大な資金を要としたカトリック教会は、贖宥状(免罪符)を発行し、それを買うことで罪の赦しが与えられるとする見解を打ち出した。それは、実に、聖書の語る救いからかけ離れたものであり、ルターは、それを真っ向批判したのである。それは、地道な聖書研究の結果としての果実であった(詩編研究、ローマ書研究など)。
その後、彼は、ボルムスの国会で審問を受けることとなる。彼はどんな圧迫や脅かしを受けても「我、ここに立つ。主よ、憐れみたまえ」とただ、信仰によって自らの主張を曲げることをしなかった。当時の世界を支配していたローマ教会としては、ルター如き、小さな虫けらのような存在で いつでも命を奪うことができたのである。ボルムスを去ったあと、一団の騎士たちに暴力的に連行され行くルター。彼は死を覚悟した。
しかし、その一団はザクセン選帝侯が彼を守るために遣わした者たちであった。ルターは、バルトブルク城で保護されることになる。彼はそこで多くの文書を著わすが、その中で特筆すべきものは、ドイツ語に旧・新約聖書を訳したことであろう。しかし、いつも彼は平安・勝利の道を歩んだわけではない。時に、気分転換をしようと友人に誘われて行った狩りで、犬によってウサギが食い殺される姿を見て、「私もローマ教皇によってあのようにされるのだ」と震えおののいたと言われる。また、ある時は、悪魔が幻に現れ、壁一面にルターが犯した罪を羅列したと言う。しかし、ルターはその壁に向かってインク瓶を投げつけ、「私の罪は主イエスの十字架によってすべて赦されたのだ」と言い放ったと言われる。彼は病気の問屋のような男であったが、主の守りと支えの中を生き抜いたのである。
当時、修道士は結婚できないとされていたが、結婚は神様の祝福と聖書から捉えていたルターは修道女のカタリナ・フォンボラと結婚をし、多くの子供に恵まれ、幸せな家庭を築いた。「いとしのケーテ」と妻を呼び、その妻に支えられた。このような逸話がある。ある日、ルターは様々な困難に苦悶し、打ちひしがれ、暗い顔で下をうつむいていた。カタリナは、葬儀に行く服に身を包み階段を降りて来る。ルターは顔を上げて言った、「誰が亡くなったんだ?」と。すると、彼女は答える、「神様が亡くなったんです!」。ルターは怒り出し、「神様が亡くなるわけがないだろう!」叫ぶ。すると、カタリナは、「あなたの顔を見ているとまるで神様がお亡くなりになったように見えます!」と答えた。ルターははたと気づき、再び信仰に立って歩み始める。
苦しい戦いを続けたルターも天に召される時が近づく。ルターは寝台に身を横にしながら、主イエス・キリストにあって神様を信じ、愛し、説教し、礼拝して、これたことを喜ぶ。そして、最後にヨハネによる福音書3章16節を口ずさむ。これによって最後の祈りは終わる。すると、二人の弟子が息を引き取ろうとするルターに向かって大きな声で問うのである、「師よ、あなたはイエス・キリストを信じる信仰を持ちつつ死んで行くのですか」と。するとルターは「ヤー」(さよう、そうだ!)と言って息を引き取ったのである。このようなルターの熱き豊かな信仰が我らプロテスタントに継承されているのである。