熊本白川教会 月報 12月号より

「光は闇に勝つ」ヨハネによる福音書1章1~5節 


 

   アドベント、主イエスのお誕生を待ち望む季節に入りました。命の光である主がおいで下さったことによって、闇の中に住んでいる私たちに喜びの時が訪れたのです。  ヨハネによる福音書が書かれた時代、ヘレニズム文化の下に暮らしていた人々は、世界にはそれ(世界)を治めている法則のようなものがあるのだと信じていました。そしてそれを「ロゴス=言」と呼んでいました。ヨハネはその人々に対して、あなた方が呼んでいる「ロゴス」とは「主イエスの事ですよ」と記したのです。またヨハネは「主イエスは神である」とも記します。世界のすべては、この方によって創造されたのだと宣言します。聖書の箇所を読みます時、私たちは否応なしに創世記1章を思い起こします。全能の神が、「光あれ」と宣言なさる。すると混沌としたカオスの世界に光が生じるのです。光なしに生きられる存在はありません。光は命を生み出すものなのです。そして、命なき闇は私たちの前から消え去って行くのです。

 人を取り囲む闇とは何でしょうか?苦しみ、貧しさ、病、嘆き、不和、怒り、憂い、失望・・・あげれば尽きません。しかし、それらの背後に隠れているのは、悪=罪であります。罪は神と人とを、人と人を分断します。このクリスマスを迎える時、思い起こしましょう。私たちはコロナ禍の過酷さゆえに心のゆとりを失い神様に仕えること、隣人を愛することを見失わなかったか。神様の愛の光に照らされて自分の姿を見つめ、罪を神様の前に悔い改めつつ、もう一度、神様を見上げ信仰と希望と愛に生きる者としていただきたいのです。  

 ヨハネによる福音書8章に「姦淫の現場で捕らえられた女」の物語が出て参ります。「姦淫」とは、現代で言う「不倫」の事です。自分に伴侶がいるのに、別の人と関係を持つことを意味しています。当時のユダヤ教においては「そのような家庭を破壊する罪を犯した人間は、石で撃ち殺せ」と定められていました。男は逃げおおせたのか。女性だけが引き立てられて来たのです。その姿に、ただ女性が罪を犯したという以上の悪意を思います。主イエスに「さあ、このような女をどう扱いますか⁈」と迫る律法学者たち。主イエスは身をかがめられ地面に字を書き始められます。しかし「さあ、どうする!どうする!」と迫る人々。悪意のまなざしでイエスの次なる言葉をまつのです。「石で打て」と言えば、愛と赦しを説く主イエスの教えに反しますし、「石で打つな」と言えば律法に反しますから、ユダヤ人たちの激高を買います。主を追い込む策略なのです。主イエスは身を起こしされ、毅然と言われます。「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げつけよ。」と。主は「石を投げよ」と言うのです。しかし、条件がある「罪を犯したことのない者だけだ。」。主の放った言葉が光となって彼らの闇を突くのです。罪なき者がこの世界にいるのか?それは、行動では罪を犯さなかったとしても、その心において、人とはどんなに汚れたものであるかを、主の言葉はあぶり出しました。人々は一人一人とその場を去っていく。そして、主と女性と二人だけになります。主イエスだけが、この女性に石を投げつけられる聖い方。ですが、その女性を「罰しない。もう、罪を犯さないように。」と赦しを宣言して下さるのです。光の中に留まった女性は、豊かな赦しと平安を受けます。私たちも、この光の中に留まりましょう。そこにこそ、救いがあります。人は自らの力では闇に勝てないのですから。

光は闇に勝つ