熊本白川教会 月報 1月号より

「新年あけましておめでとうございます」

テサロニケ人への第一の手紙5章12~22節

 


常時喜悦・不断祈禱・万事感謝

 テサロニケ人への第1の手紙は、新約聖書では一番古くに書かれたものでAD50年ごろのものと推察されます。その頃の教会(初代教会)の息吹を感じることができます。クリスチャンたちは、再臨(パルーシア)信仰に熱く燃えていました。どんな迫害が押し寄せようと、主は再びおいで下さり私たちの救いを完成させてくださると信じておりました。

 教会史には極端な再臨信仰を持つ者たちがおり、仕事を辞めたり、財をすべて施したり、ある者は白い衣を着て家の屋根に登り、主がおいでになるのを待っていたと言います。マルチン・ルターはそのような熱狂主義者に対して、「たとえ明日、主がおいでになっても、今日、私はリンゴの木を植える」と言って日々を誠実に過ごすことで、主を待つことを語りました。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」この言葉の背景にあるものは、正しい再臨信仰です。主の日は盗人のように気づかないように来ます。また、それは妊婦に突然の出産のしるしが起きるようなものだとパウロは語ります。でも、妊婦はおなかに赤ちゃんができたことを感じ取り、出産が近づけば周りの者も気づくのです。主イエスが言われた、私が再び来るときには、以下のような兆候があることを思い出しましょう。戦争、震災、不法がはびこり、多くの人の愛が冷えることを。現在の世界も人口の爆発、公害、コロナの蔓延、大国同士の争いなど、まさに、聖書の語る終末の様相を呈しています。しかし、いつの時代も終末的兆候はありました。でも、私たちが心の止めておくべきことは、「福音が全世界に伝えられて終わりが来る」言う言葉です。2000年半ばには全世界に福音が伝わり終わると言われます。私たちは信仰の目を覚ましていなければなりません。

 どのように覚ましているのか?それは、「常時喜悦・不断祈祷・万事感謝」においてであります。神様がそれらを直接私たちに求めておられるとは聖書に書いていないのです。どのように書かれているか?「キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられる」のです。「キリスト・イエスにあって」、英語で in Christ。すなわち、キリストに信仰を言い表し、洗礼を受け、結ばれたことを意味しています。クリスチャンとは、主イエスと結ばれているのです。このキリストから引き離せるものは、この世界に存在しません(ローマ8章をお読みください)。また、この結ばれかたは不思議です。英語で表現しましたように、「キリストの中にある私たち」。そうなのです!私たちはキリストの聖なる臨在、そのみ腕の中に包み込まれているのです。私たちは救い主なる神の腕(かいな)の中に存在している。どんな嵐や困難に巻き込まれようと揺るがされることはありません。ですから、世界がたとえ終末の様相を呈そうとも恐れることなく信仰に生きようではありませんか。時は流れ、人は変わり、世界は移って行きますが、神様は深いご計画を成し遂げて行かれるのです。まるで、人間が歴史やすべてを動かしているように見えたとしても問題ではありません。人は創造主なる神様を越えることはできません。主イエスの豊かな愛に守られ導かれながら、備えられた道を今年も歩みぬいて参りましょう。

神の子羊