熊本白川教会 月報 3月号より

「仕えあう力はどこから?」

ヨハネによる福音書13章1~15節


 

  この13章から、ヨハネ福音書の後半部分が始まります。12章までには、主イエスがなさった七つのしるしと、その関わりで人々に語られたみ言葉が記されています。主イエスが、そのみ業とみ言葉とによって人々を教えられたことが語られているのです。またその後、18章までは主イエスは公に姿を現しません。13~17章まで、主イエスが弟子たちと共に過ごされたことが描かれています。

 

1,最後に力をこめられる主

 2節に「夕食のときであった」とありますが、これは、主イエスが弟子たちと共に取った「最後の晩餐」のことです。その後、主イエスは逮捕され、大祭司のもとで尋問を受け、翌朝ピラトのもとで裁かれ、すぐに十字架につけられるのです。そのことが18章以下に語られています。ということは、13章から17章までのところは全て「最後の晩餐」の場面だということです。ヨハネは多くの言葉を費やし、力を込めて主の働きを語るのです。

 

2,自覚される主  

「ご自分の時」とは、主が既に12章23節において「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っておらるのを思い出させます。主イエスの時とは、十字架の死と復活によって永遠の命を生きる者となる時、そして父なる神のもとに帰る時のこと。またそのことによって『ひとり子なる神』としての栄光を受ける時であるということです。すなわち、十字架の死と復活によって救いが成し遂げられる時ということです。

 

3.愛し通される主

 神の独り子であられる主イエスは、神に背き逆らっている罪人である人間たちを救うためにこの世に来られました。そしてみ業とみ言葉によって人々を教えられました。そして、ご自分が十字架にかかって死ぬことによって、罪人である人間の救いを実現しようとしておられるのです。3章16節にありますように、「そのひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ためです。けれども、人間の信心深さによってひとり子を信じるのではありません。主イエスが彼らを愛して、愛し通して下さったことによって、彼らは「ひとり子を信じる者」とされるのです。そして、教会の土台とされるのでした。

 

4,弟子たちの足を洗う主

 この晩餐において、だれも進んで隣人の足を洗うものはおりません。主が僕の姿で足を洗いなされます。普通でしたら、これから、弟子たちのために、また、全人類の罪を背負って身代わりとなられるのですから、弟子たちが主イエスの足を洗うべきではありませんか。あのナルドの香油を注いだベタニヤのマリアのようにひざまづくべきではないでしょうか(12章)。しかし、そのことに弟子たちはきずかないのです。救い主としてのご自覚を持たれた主イエスが、僕として足を洗うとは何と驚くべきことでしょう。どこまでも、僕として、苦難の僕として生き抜かれる主イエスを思います。このお方は、真に神で在られることがこのことからもわかるのです。謙遜の極みの姿です。人はこれを成し得ません。己を捨てて行く姿の中にこそ、真の王の姿があります。

 

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