熊本白川教会 月報 4月号より
「救われた罪人の頭」
テモテの第1の手紙1章1~17節
この手紙は、エペソ教会で牧していた愛弟子テモテへ、使徒パウロから宛てられたものです。その中で、パウロはテモテを励まし、勇気づけ、主イエスの力によって教会に仕えることを語っています。なぜなら、偽教師が現れ、教会は混乱させられていたからでした。(使徒20:29,30)
彼らの主張は、キリスト教のメッセージと、当時の古代中近東のグノーシスと言う思想が融合した、別のものでありました。創作された物語、系図への奇妙なこだわり(1:4)それがクリスチャンたちの足をすくい始めていたのです。誰もが耳新しいものには興味を魅かれるものです。日本にもかつて、日本の思想とキリスト教を融合させた”日本的キリスト教”というものが生み出された時がありました。私たちは、何事も注意深く判断し、祈りつつ、伝えられた聖書の福音を継承していくことが大切です。時流や流行りにのりすぎますと、本来の大切なものを見失っていく危険があるからです。
さて、このような空想的な話に、パウロは何を持って対処するよう語っているでしょうか?それは「清い心」もって、とまず述べます。「清い心」とは「神様によって清くされた心」を意味します。すなわち「神様中心の心、神様に栄光をお返しする心」神への謙遜です。偽教師たちは、自分がいかに優れているか評価されるため、自らが讃えられることに終始していました。
また、パウロは「正しい良心」について語ります。それは、神様の力をいただき善と悪を見極める力です。「時に、悪は善の背中に乗ってやってくる」と言う言葉があります。また「善は最善の敵である」と言う言葉もあります。悪に騙されない人は多くいます。けれども善のために最善をとり逃がすことは誰にでもありえることです。良き妥協はあっても、悪しきへと続く妥協はあってはならないと言うことです。
そして、パウロの次の言葉は「偽りのない信仰」です。信仰とは関係性を表します。誰と誰の関係でしょうか。神様が主イエスにあって私を無条件に愛していて下さる、赦して下さっていることを信頼し、その信頼関係のなかに憩いながら生きること。それは神と私の関係、神とあなたの関係です。
「清い心」「正しい良心」「偽りのない信仰」で何を表していくか。それは神様にまず、大きな愛で愛されていることを知り、次にその愛に答え、神様を愛していくことです。
「神様の計り知ることの出来ない愛」を知るように教会を導け、とパウロは語ります。「神様の愛」こそが、あらゆる罪から私たちを守るからだと教え、また「神様の愛=キリスト・イエスの恵み」が、私たちのうえに、溢れるほど増し加えられていると記します。そして、この麗しい言葉が続きます。
『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人の頭なのである』(1:15)
パウロは、かつて教会を迫害し、クリスチャンたちを傷つけた罪人でした。主イエスと出会い罪ゆるされたとは言いつつ、過去の自分の行いに苦しむことがあったかもしれません。パウロは自分を、クリスチャン達を傷つけた「罪人の頭であった」と過去形で語りません。ここを現在形で語るのです。けれどもそれは、過去の罪を思い起こし、自虐的に自分を責め続けるということではありません。むしろ、信仰が深まれば深まるほど、イエス・キリストによって『神様に赦されている罪人の頭』と喜びに満ちた言葉で語っているのです。偽教師が主張するようなメッセージは、この大きな神様の愛の前には吹き飛んでしまうものでした。
私達も神様の偉大な愛を深く深く知らせて頂きましょう。