熊本白川教会 月報 5月号より

「涙はぬぐわれる」

ヨハネによる福音書20章11~18節


 

 母教会の後輩牧師の奥様が天国に召された。まだ年若く、教会も新会堂になり、牧師としても20年近くも労され、これからが期待されるご夫妻であった。しかし、神の国を目指して、「イエス様に会えるのが楽しみ!」と顔を輝かせておられたときく。今は、主イエスの御腕の中におられることを確信するものである。私達の人生はむなしく死で終わるものではない。神の国に生きる人生が与えられているのだ。このことを喜ぼう。そのことを胸に抱きつつメッセージを聴いていただきたい。

 

1, マリヤの涙の意味

 主イエスが葬られ、安息日が明けた。女性たちは墓にいでゆく。生前の面影を偲んで。しかし、墓に赴くなり衝撃が走る。主イエスのお体が無くなっているのだ。弟子たちに告げに帰る彼ら。ペテロとヨハネは墓まで走る。彼らは復活が起きたことは信じられるのだが、それが今後、何を意味するか分からずに墓を立ち去る。       

マグダラのマリヤは一人墓を前にしてさめざめと泣く。ルカ8:2を読むとき、マリヤは主イエスによって7つの悪の霊から救われたとある。心も体もボロボロの人生からの回復であった。それ以後、弟子たちと一緒に主に従い、伝道の旅に赴き、主の語る力と権威ある言葉を聴き、神の子としての癒しの御業を何度も目撃した。しかし、世の力の前に主は十字架につけられ命を奪い去られてしまう。絶望にあふれる心。でも、強き心を持つ彼女は今度は自分が死ぬまで主を思い、主のお体を守って行くのだと固く決意していたのであった。それが、「わたしの主!」と言う神のみ使いとの会話の言葉の中にあらわれている。  

                      

2,視線の方向  

 マリヤの思いはその視線の方向性に表れている。彼女は墓だけを見ている。ひたすらに墓を覗く、神のみ使いの言葉は耳に入らない。では神のみ使い達の視線はどこをむいていたか。そこをみる。彼らはマリヤを越えて、マリヤの背後に立っている方を見ていた。それはだれか。それは、罪と死を打ち破られ 復活された主イエスであった。マリヤもうしろに誰かがいることには気づいてはいたが、それが主だとはわからない。悲しみ、絶望、不信仰が彼女の心の目を閉ざしていたからである。     

そしてそれは、エマオに向かって歩く二人の弟子たちのそれと同じである。悟れない弟子たち、そのような弱き者たちに主の方から近づき、声をかけ、信仰を与え、主を見る者とされるのである。信仰は外からやって来る。あなたにも主イエスは近づかれる。

 

3.マリヤよ  

主の声が響く、「マリヤよ」。愛と優しさと力と権威に満ちた声。私のすべてを知り愛していて下さるあの声。「ラボニ!(先生)!」とマリヤの応答。原語があえて記されるところにリアル感がある。マリヤは主にすがりつくのであるが、むしろ彼女には使命を与えられる。恐れている弟子たちのもとへ行きこのことを伝えよ。そのように遣わされる。17節、「わたしの父、またあなた方の父、わたしの神、またあなた方の神であられる方のもとに昇る。ガリラヤで会おう」と。ガリラヤは主と弟子たちが初めて出会い、召命をうけとったスタート地点でもあった。ガリラヤへの道すがら、彼らの不安、慌てふためく思いは静まり、やがて(復活した主に会える)という喜び、期待に変わっていったことであろうか。裏切った弟子たちへ心砕いてくださる主。その愛は、私達のものでもある。彼らが復活の命を得て歩んだように、私達にもそれが許されている。

復活