熊本白川教会 月報 6月号より
「聖徒の輝き‐かつて美しい夢をみた」
へブル人への手紙12章11節
あまりにも、素敵な夢だったので書き残していました。お分かちします。
ひとりの牧師がいらした。O牧師。優れた説教者であり、大勢の人々が教会に集まっていました。人々は彼の一挙手一投足に注目します。牧会者らしく配慮に満ち、あんなに大勢の教会員がいるのに、ひとりひとりに外国語の聖書のお土産のプレゼントし、そして、わざわざ聖書の箇所も開いて声をかけていました。私は隣りに座っている妻に「さすが、先生だ。細やかで配慮がある。凄いな~」と賛辞を送っていました。
場面は切り替ます(夢の中なので) 老牧師が、小さな部屋の中に立っています。みんなから、イエス様のような先生と言われていたH牧師。しかし、その部屋には多くの人は集まっていませんでした。やんちゃな男の子が、4、5人いるだけです。みんな貧しく薄汚い格好をしています。でも、子供たちが、先生を見るやいなや声をかけます、「先生、なんでそんな所に立っているの。さあ、こっちに来て座りなよ!」。椅子が差し出されると老牧師はおもむろに座します。すると、子供たちが讃美歌を歌い始めました。美しく透き通るような天使の声で。それは、神様への讃美であり、H牧師への感謝でもありました。すると、優しい愛の目が彼らを見つめているのに気がつきました。 そこで、目が覚めました。
多くの賜物を持って、仕えるのも幸いなこと。でも、主イエスのような愛で教会を愛し、隣人を愛することはこの上なく幸いです。牧師とは、なんと幸いな務めでしょうか。クリスチャンとは何と豊かな歩みが許されるのでしょうか。麗しい夢を見て、主に心から感謝ささげました。私も教会も溢れる主の愛の器にしていただきたいと深く深く祈る者です。
追伸
ある宣教師がタイに行ったときのことです。タイは銀細工の盛んなところです。宣教師はある銀細工の工房に行きました。一人の職人がるつぼの中に銀の原石を入れて、バーナーでるつぼを真っ赤に熱して銀を溶かしていました。やがて銀の液体の上に金かす(不純物)が浮かび上がってきました。彼はそれをすくい取っては捨てます。何度も何度もそうするので、宣教師は聞きました。「どれくらいになったら純粋な銀になったと言えるのですか?」職人は答えました。「この表面に私の顔が鮮明に映るまでです。」 その時、宣教師は偉大な真理を学んだのです。私たちの神も、御自分の御顔が私たちに鮮明に映るまで、私たちを鍛えるのだと。
哲学者カール・ヒルティは言います、「クリスチャンに苦しみが必要なこと。苦しみを通してだけ人間は神の望まれる人格に成長することが出来るのです」と。人は楽しさによって心が豊かになり、悩みによってこそ、心は強くされるのです。 悩みや試練は私達の人生に必要不可欠なものなのです!神の国に入るとき、それは栄光の冠と変えられます。恐れず、歩んで行こうではありませんか。主の聖徒たちは、一朝一夕でできるものではありません。でも、主が私達を主の器に作り上げて下さいます。感謝。