熊本白川教会 月報 7月号より

「主が愛されている教会の未来」

ヨハネの黙示録3章8節


 

 白川教会は主に愛され期待されている教会です。熊本市の真ん中に立ち、広い敷地を擁し、市民から愛されている幼稚園、教会ホームなどを有しています。周りの教会からも信頼を勝ち取ることが許され、今年も市民クリスマスを依頼され、引きうけることといたしました。当教会の祝福だけを願うのではなく、熊本市にある主の教会と力を合わせ福音の喜びを分かち合って参りたいと願っております。

 「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」とヨハネ黙示録3:8にあります。「フィラデルフィア」、「兄弟愛」という美しい地名にたつ教会。その教会を主は愛しておられたとあります。その教会は大きくはなく、むしろ、家庭に集るような小さなものでした。この言葉の箇所の前後に「力が弱かった」と言う言葉にあるように、人数が少ないだけではなく、その構成メンバーの多くは奴隷達でした。彼らは朝早く起き出でては朝焼けと共に礼拝を守り、ブドウの産地で有名なこの土地で懸命に働いていたと思われます。しかし、彼らは小さくありましても聖書(旧約)の言葉を重んじ、それに生きたのでした。聖書の言葉は信仰と生活の基準ですが、それと共に聖書の言葉が彼らを生かし、支え、慰め、勇気を与えました。そして、人生の中での決断をさせる力も与えてくれたのでした。それは、彼らが聖書の言葉を守ったと同時に、聖書の言葉が彼らを守ったのです。今日の教会の民である私たちも聖書の言葉を心に貯えようではありませんか。宗教改革者のルターが言いますように、「悪しきものは聖書から私達を離そうとする。しかし、私達が聖書に近づくとき悪しきものは私達から逃げさる」と。

 また、彼らは信仰を公にして歩みました。私達も信仰者であることをなんら恥じることはありません。どんな時代が来たとしても堂々と胸を張って、讃美をもって生きて参りましょう。高慢な姿勢ではなく、確信のある姿が人々を主に導くものであると思うからです。

 現在、世界は大きく変わろうとしています。教会もその影響を受けています。コロナ禍の影響は、教育関係、仕事の在り方などに大きな足跡を残しました。その余波は今も残っています。ネットを使っての礼拝、会議、授業などは、今でも続いております。そう遠くないうちに、ペーパーレスの時代になるでしょう。あの宗教改革が前進した要素の一つに活版印刷がありましが。これからの時代、人と人との触れ合いが更に希薄になり、ネット社会が強固なものとなります。わざわざ、その場所に行かずとも、とてもリアルなものとして体感出来るようになります。ゴーグルを着けて360度、大教会の礼拝堂に座っている臨場感、迫力のある音声・・・。山の中でも礼拝に出席(?)。献金はネットで決済。誰とも会わない、亜空間で会う。さあ、それは礼拝として成り立つのでしょうか?愛は言葉だけで成り立つものではありません。気配、空気、存在を必要とします。現実的な触れ合いが大切なのです。さあ、白川教会、愛の具体的な実践の在り方を主から問われる未来が来ます。フィラデルフィアの教会のように、主に力づけられ、神の愛を語り、具体的に隣人に仕えて生きる方を選び取って生きましょう。

 

海