熊本白川教会 月報 8月号より

「真の神様を礼拝しよう」

出エジプト記32章1~24節


 

 契約の大切な十戒の言葉を刻んでいただくため、モーセはシナイ山に登ります。山は神様の臨在のしるしである雲に包まれ、稲妻が鳴り響き、神様の存在の厳かさを表していました。  モーセたちが山に登り、1日に、2日と経って行きます。しかし、一向に戻る気配がなく、40日が過ぎますと民たちは不安になって参りました。「モーセは、どうなったのか?」、「死んだのか?」、そんな声も漏れ伝わって来ます。やはり、民らは神の驚くべき御業(エジプトに降った10の災い、紅海が裂け、エジプト軍が全滅する様子、マナや鶉が降り、水が砂漠に湧き出る奇跡)を見ても、それを神様からものと受け取らずに、モーセの神通力の結果のようであるかのように思っていたのでしょう。

 偉大なモーセが姿を現さないことが彼らの不安をかき立てたのでした。そして、見ることの出来ない神様を見える形にしてくれと指導者アロンに迫ります。アロンは、「こういう時こそ、皆で祈ろう、神様を讃美し礼拝しよう!」と指導すれば良かったのですが、何と彼は、人々から金銀を集め「金の子牛」を造り、これこそ、あなたがたをエジプトから導き上った神だと宣言してしまうのです。

 他の聖書の訳では「雄牛」と書かれています。牛は当時の力の象徴と考えられていました。彼らは、他の神々を拝んだのではなく、見ることの出来ない永遠の神を見える「金の子牛」に限定させそれを拝んだのでした。見えるものを拝みたい。触れたい。すがりたい。それが、人の思いなのです。

 しかし、これが、十戒に反する罪でありました。 また、真の神以外のものを神とするときに、そこには人間の道徳・倫理の乱れも生じます。彼らは踊りたわむれたとあります。これは、性道徳の乱れを表す言葉です。日本でも、人が形作った偽の神=偶像の周りには必ずと言っていいほど、そのような乱れた場所が出現いたします。

 私たちも、偶像礼拝には気をつけなければなりません。偶像とは人間の欲望・願望の投影だからです。ですから、あらゆるものが偶像になってしまうのです。自分が、家族が、経済が・・・・。欲望の暴走の先に愚かさと悲劇が待っています。気をつけて私たちの心を見張りましょう。祝福は、そこから流れいずるからです。どのような時も、神の国と神の義を求めて行きましょう。すべての必要なものをこのお方が満たして下さるからです。

 私たちは、この世界の去りゆきもののみに心を奪われてはなりません。この世界のものはすべて流転して行きます。変わらないものがあるでしょうか?消えゆくものに、希望を置くことは虚しいものです。見える有限なものにひれ伏すのではなく永遠に変わることがなく、常に、私たちを愛し守られる神様を礼拝致しましょう。このお方は主イエスを通して私たちを憩いのみぎわに伏させ、正しい道に導き続けて下さいます。見えるものは一時的であり、見えないものこそ、永遠に続くのです。そのことを絶えず心に刻みましょう。  最後に、聖書の言葉をしるします。 

「永遠に主に信頼せよ、主なる神は永遠の岩だから」 イザヤ26章4節

 

牧師室8月