熊本白川教会 月報 11月号より
「万物の終わり* 救いの時」
ペテロ第一の手紙4章7・8節
聖書の語る「万物の終わり」と何でしょうか。
私たちは、コロナ禍に悩まされ、また、ロシア・ウクライナの争い、中国と台湾の問題、温暖化の課題などを見聞きしますと、この世界が終わりに向かっていると考えます。しかし、聖書は世界が滅亡に終わるとは語りません。むしろ、天地を創造された神様は、この世界の存在、歴史を完成なさると述べています。
ヨハネの黙示録においても、主イエスはアルファであり、オメガであると語られ、同様のことが言われています。 ここで、「万物の終わりが近づいている」と書かれていますが、この「近づいている」という言葉は、もう来ているとも訳せます。主イエスはマルコによる福音書1:15で、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語られました。旧約聖書はわたしにおいて実現・成就した(時満ちた)。神の国の支配・世の終わりの出来事は、わたしの到来によって始まったと。
主イエスの生涯を見ると、世の終わりに神様が何をなさりたいかがわかります。それは、「人間の救い」です。神様は、人間の始祖であるアダムとエバがご自身に逆らい罪を犯したとき、彼らを求めて探されました。エデンの園を歩く足音が聞こえたと聖書は記します。神様は霊で在りますから足音はしないのです。しかし、聖書には足音がしたことが確かに記されています。まさに、主イエスが神の子でありながら人となられた受肉以前の受肉が起きたことが述べられているのです。良き羊飼いが迷子の羊を探す姿です。
「万物の終わり」、その意味とは、被造物の目的と意味、すなわち、救いが成就し完成することを意味しているのです。それは、悲惨な終末の時ではなく希望の時なのです。 私たち人間は目に見える現実のみに心を奪われます。ですから、「心を確かにし、身を慎んで祈りましょう」とペテロは語ります。落ち着きましょう。何かに心を奪われず、心静かに目を覚まし、主を見つめ続けることです。神様と祈りの中で豊かに交わりましょう。自分の揺れ動きやすい思いを訴え、それと共に、語り掛けて下さる言葉を聴く。説教を通して、聖書の日々の通読をとして、隣人とのやり取りの中に神様の声が聞こえます。そうすると、神様からの愛がこころに満ちて参ります。
ペテロが生きた時代。安心して泊まれる宿はほとんどありませんでした。そのような世界を人々は旅したのです。パウロを始め多くの巡回伝道者もそうでした。人々はわずかでも知り合いの者を見つけては宿をとりました。いつも知り合いばかりの宿ではない。宿がない時もあったのです。思い出してください、主イエスの誕生の際、ベツレヘムで宿がなく、馬小屋で過ごしたことを。ペテロは教会員に向かい積極的に家を開き、人々を迎え入れよと告げるのです。もしかすると、中には不埒な連中もいたかもしれません。それでも、愛を貫いて信じ受け入れなさい。なぜなら、父なる神様が主イエスを通して私たちを受け入れて下さったではないか。そして、私たちが神の国に行くとき、主が旅人を迎え入れるように私たちを迎えて下さるのだから、と。どこまでも、主イエスが不出来な弟子であった私(ペテロ)を受け入れ、赦し、愛して下さった。その愛が言葉になりました。救いの時は近いのです。