熊本白川教会 月報 12月号より
「マリアは歌う」
ルカによる福音書1章6~56節
~へりくだる者の賛歌、神様へ~
主イエスの誕生を待ち望むアドベントの季節に入りました。祈りの心で聖書に聴きましょう。
この箇所は、エリサベツとマリアの出会いを記しています。そして、お互いに神様の成して下さった御業を喜び歌うのです。これはまさに教会の姿です。共に主を喜び讃える!私たちもこの季節を喜びの日々として過ごして参りましょう。
1, 受胎告知(1:26~38)
ナザレ、300~400人ぐらいが住んでいたという小さな町。そこに、住む14歳の若き娘がマリア。彼女に神様の御使いは、遣わされ告げるのです、「聖霊=いと高き者の力に覆われ、子供を身ごもる」と。「人間の知性や常識を越えた神様の御業を経験するよ、マリア」。「見よ、親族のエリサベツも老年でながら、子を宿している」、子供を産むことが出来ないと言われ続け、その祈りも空中に消えていくように見えたエリサベツは、神の時に、主イエスの前に道を備えるバプテスマのヨハネを宿します。マリアは、その発せられる神様の言葉によって信仰が与えられ、全存在を神様に委ねて参ります。
2, エリサベツのところへ(1:39~45)
なぜ、マリアはエリサベツのところに行ったのでしょう?天使の告げた神様の言葉の成就(実現)の確認ためです。ナザレからエルサレム近郊までは、そうとうの距離がありました。そのことを乗り越えてでも、彼女は神様の言葉の目撃したかったのです。
今日の私達も神様が生きて働いておられることを見させていただきましょう。そのことは許されています。熱く祈りましょう。 さて、エリサベツは、親戚とは言え、地位も財力も、あらゆる経験においてもマリアより上の存在です。しかし、マリアとエリサベツの出会いの中でヨハネは胎の中で踊り、それを経験した彼女は神の子の母親であるマリアに敬意を払い宣言します、「主のお語りになったことが必ず実現すると信じた女性は何と幸いでしょう!」。ここで私たちは気づかなければなりません。信仰において大切なものを。
それは、神様の言葉です。マリアは、「私は主の女奴隷です。神様のお言葉通りにこの身になりますように」と受胎告知の際に宣言しています。すなわち、神様の言葉が命となり力となってマリアやエリサベツを尽き動かし、神様を讃美し信仰の歩みをさせているのです。マリアは歌います、「私の魂、霊(奥深き存在)は、主を拡大し、神様を讃美します」と。
神様が私の中で大きくなって行く、そして、自分や隣人への不必要な関心がどんどん小さくなって行くと言うことです。人の罪とは、必要以上に自分や隣人の思いに関心を抱きすぎ、本来、最も大切な神様が私をどう思っていて下さるかをおろそかにすることではありませんか。この聖書の箇所は、神様の前にある人の歩みが、いかにあるべきかを歌っているのです。 クリスマスの時、遜られて人となられた主イエスの姿を深く深く思いましょう。