熊本白川教会 月報 1 月号より

「すべては神様の導きの中に」 創世記45:8


 

 ヨセフ物語は神様の摂理を語っています。
その意味は、人生に起きるすべてのことを神様はその支配の中で導いておられるということです。
ヨセフの人生を見つめながら、神様の摂理を覚え、私たちも神様に豊かに導かれながら生きていることを確認してまいりたいと思います。

 ヨセフは兄たちの妬みにより、エジプトに売られます。
しかし、侍従長・ポテパルの家で認められたかと思うと、今度はその妻の奸計により投獄されます。
その獄中で、エジプトの王・パロの重臣たちの夢を解き明かすのですが、その一人である料理長は見事に彼の存在を忘れます。

 月日は流れ、パロは不思議な夢を見るのです。
その時、料理長はヨセフの存在を思い出します。
ヨセフは神様の力によってパロの夢を解き明かします。

 七年の大豊作ののち、七年の大飢饉が訪れることを。
パロはヨセフの中に神様の知恵と優れた才能を見い出し、彼は総理大臣(宰相)として抜擢されます。まさにシンデレラストーリーのようです。

 それが、摂理なのでしょうか。そういう側面もなくはないでしょう。
しかし、それよりも深い出来事が起きてまいります。
それは、飢饉が中近東全域に及び、ヨセフの兄弟たちもエジプトを訪ねるようになることです。

 ヨセフの前に立つ彼らですが、彼らはヨセフに気づきません。
兄弟のシメオンは人質に取られ、末弟のベニアミンを連れてこなければ、今後の食料の供給はない、とヨセフに告げられ、兄弟たちは帰路に着
きます。食料は再びなくなります。

 ヤコブの反対を押し切り、ユダはベニアミンを命に代えても連れ帰ると約束をし、再び、ヨセフの前に立ちます。
彼らは何故か、ヨセフとの会食に招かれ、接待を受け、食料をもって旅路につきます。しかし、そこでヨセフは策略をめぐらします。
自分の銀の盃をベニアミンの食料袋に入れるように命令するのです。

 エジプトを去る兄弟たちを、兵士たちが追いかけます。
そして、「銀の盃を奪ったものがいる、その者が奴隷となれ」と命じます。
彼らはそんなことはあり得ないと憤慨しますが、ベニアミンの食料袋から、それが出てくるのです。
 彼らは絶望的な気持ちでヨセフの前に三度、立ちます。
その時、ユダはヨセフを売った罪を認め、悔い改めるとともに、父ヤコブを思い、「自分が奴隷になります」と全存在をかけて、ベニアミンを擁護します。

 ついに、その姿が、ヨセフの心を動かします。
兄弟たちは目の前に立つ宰相が、自分たちの売り飛ばしたヨセフだと聞いて茫然とし、復讐を恐れます。
しかし、ヨセフは摂理の信仰を語ります。
「わたしをここに売ったのを、嘆くことも悔やむこともいりません。
神は命を救うために、あなたがたより先にわたしを遣わされたのです」と。

 神様の摂理は、ヨセフの困難な過去を信仰によって再解釈させ、ユダとその兄弟を悔い改めに導き、和解させるのです。

 私たちは、このヨセフ物語の中に、引きこまれていきます。
ヨセフとその兄弟たちを導かれた摂理の神様は、私たちの神様もあるです。それゆえ、人生に悲しみ、悩み、困難、憂いがあったとしても、
すべてを働かせて 有益に変えることができる方を、信じるべきです。

 恐れやすい私たちですが、真実の神様に支えられて、今年を力強く歩み始めようではありませんか。

 

鳥