熊本白川教会 月報 12月号より
「『恐れるな』の声を聴く」 ルカ1:5~25
今年はコロナ禍ということで、個人的にも、教会、幼稚園においてもかつて経験したことのない出来事に直面しました。
皆さんも戸惑われたり、悩まれたりとご苦労が多かった年であろうと思います。
しかし、そのような時こそ、神様の声を聖書から聴きましょう。
1. ザカリヤとエリサベツ
ザカリヤは祭司であり、エリサベツもアロンの末裔ですから、どちらも祭司の家系であったと知ることができます。
両者とも、主の前に、隣人に対しても真実に誠実に歩んでいました。 しかし、当時、信じられていた「子供が与えられないことは、神様の祝福が注がれていないということ」に彼らは苦しめられていました。
若い日からどれほど、子供を与えてくださいと祈ったことでしょうか。 初老を迎えて、その祈った言葉さえも記憶のかなたに消え、日々を生きていたことでしょう。
しかし、そのような中で、神殿の聖所で香をたくという生涯に一度あるかないかの尊い奉仕に当たるのです。(当時、祭司は 7000 人いたとも20000 人いたともいわれていたとも言われます)
これは彼らにとって子供が与えられることと変わらないほどの幸いな出来事でした。神様の用意された晴れの舞台です、祝福です。
彼らは感謝の祈りをささげたことでしょう。
2.「恐れるな」の声を聴く
いざ神様に香をたくと、ザカリヤに神のみ使いガブリエルが現れます。
神の威光を身にまとうみ使いの輝きに彼は打たれ、恐れおののきます。 しかしその時、「恐れるな」の声が響くのです。
なぜ、恐れなくてよいのか。それはこう続くからです。
「あなたの祈りは聞き入れられたのだ」。
祭司としてイスラエルの上に神様の平安を祈った祈りが聞かれた。
そして、何よりも子供が与えられるとの言葉に、ザカリヤは驚くのです。 あの既に、忘れてしまった若き日の祈りが聴かれていて、答えられる時が来たのだという言葉です。
私たちも、振り返ってみます時、人生で祈った祈りがさまざまにあります。しかし、その祈った時期も忘れた、願いも消え失せた、そして何より、そのような祈りをささげたことすら忘却の彼方に消えた。
人は忘れるのです。しかし、神様はお忘れになりません。
祈りが答えられる時が来たのです。
私たちは、願わくは詩篇詩人のように、すみやかに祈りの答えが見たいのです。
人は忍耐できない存在です。
しかし、神様の時が来るまで私たちは待たなければなりません。
神様は祈りに答えられる時を備えておられるのです。
ルカは、主イエスにかかわる誕生物語を先に書かず、バプテスマのヨハネの物語を先に書きます。
それは、主イエスの生涯が旧約聖書の言葉の成就(実現)であるからだというのです。これから生まれる子ヨハネは、マラキ書が言うように、主イエスの前に道を備えるエリヤ的人物(預言者)としての紹介をもって、み使いはゼカリヤに語ります。
すべてが、神様の深いご計画の中で動いているのです。
ザカリヤやエリサベツの苦労も皆、神様のみ手の中にあったのです。
私たちも様々な困難、悲しみ、憂いに見舞われ、祈りがむなしく空中に消えるように思える時があるかもしれません。
しかし、神様のご計画は「恐れるな」の声とともに動いているのです。 ザカリヤの名の意味は「主は憶えておられる」なのですから。