熊本白川教会 月報11月号より
「神様による夢を」 創世記37:1〜11
ヨセフ物語は神様のご支配、摂理(ご計画をもった導き)が、私たちの上にもあることを語ります。
神様が人間の弱さや罪、愚かささえも用いて個人を、また共同体(家族・教会)を救い守っていかれるのがよくわかるからです。
ヤコブには四人の妻がいます。
ラケルと結婚したかった彼はラバンに謀られ、長女レアと結婚、その後ラケルと女奴隷二人と生活を共にします。
子供は十二人与えられ、その子たちから十二部族が誕生します。
しかし、その複雑な家庭は悲劇に見舞われます。
父ヤコブの偏愛は、ヨセフの服装となって現れます。
「袖の長い晴れ着」は当時、身分の高い者が着る衣装であり、労働には適しません。ほかの兄弟たちは袖の短い服を着、汗を流して働いているのに、ヨセフはまるで王のように振る舞います。
到底、それは兄弟たちからは受け入れられず、憎しみの対象となるのです。
ここに三度も憎んだ、憎んだ、憎んだ と聖書に似合わない言葉です。ヤコブの人格的な愚かさがここに現れてくるのです。
本来、平和と穏やかさと落ち着きがあるべき家庭が、このようになる。 ここで兄弟たちはヨセフに「穏やかに」語ることができなかったと記されています。
この「穏やか」という言葉は、有名な「平和・平安」をあらわす「シャロ ームという言葉です。
この「シャローム」とは、なにもない とか 争いがないとか、ただ穏やかであるという意味ではありません。
それは、神様の祝福が溢れているという意味です。
すなわち、この家庭には神様の祝福(愛)が溢れていなかったのです。 家庭の崩壊によって神様の祝福が失われていたのです。
しかし、そのような破れを経験している者たちの上に 神様の救いの御業が起きることを、私たちはこれから知るのです。
ヨセフは空気の読めない、鼻持ちならない男に育ちますが、ある夢を見ます。その夢は自分が結わいた麦の束が突然立ち上がり、
兄弟たちの結わいた麦の束
それに頭を下げて拝んだという夢でした。
また続いて、十一の星々が自分を拝み、太陽も月も自分を拝んだというものでした。さしものヤコブもこれは咎めたとあります。
しかし、このような夢をただのヤコブの妄想ととらえることは、ヤコブにはできませんでした。
何故なら、彼も若き日に啓示の夢を見たからです。
ヤコブは、兄エソウを出し抜き、父イサクを騙し、彼はそれゆえに故郷を追われました。
命の危機を感じ、叔父ラバンのところに身を寄せる途中、彼は荒野で夢を見たのです。
石を枕に、孤独に震えて眠る彼に、神様はそば近く立たれ、「お前を祝福する」と言われる。
天から梯子が地に向かってかけられ、神のみ使いがそこを上り下りするのです。それは祈りがささげられ、答えられる姿です。
苦しい日々をこれからも過ごさなければならないヤコブに、神様は共にいて、救うと約束されたのでした。
そして、若き日に見たその啓示の夢が、実現したことをヤコブは知っていたのです。夢、神様にある希望がこれから、ヨセフを、兄弟たちを、ヤコブを救うのです。
神様にある夢、希望を抱くとき、私たちは 自分の思いを超えた神様の計画の豊かさを知ることでしょう。
今日、ともに信仰によって夢を抱いて神様の御業を拝ませていただきましょう。