熊本白川教会 月報 8月号より

「私の言葉は滅びない」 マルコ13章


 私たちは終末と聞くと、世の終わりの大変な状況を想像します。 現に、私たちは世界を見渡す時、終末の気配を感じます(コロナ禍や人口の爆発、温暖化による異常気象など)。

 しかし、主イエスはそのような現象に、心動かされないようにと語られます。
「産みの苦しみ」(8 節)と表現されている通りです。
出産は確かに苦しいでしょう。
しかしそれは 喜びのための苦しみです。
赤子が生まれたら、その喜びのゆえに苦しみは消し飛んでしまいます。

 聖書の終末とは、悲惨な出来事ではなく、涙も悲しみもない永遠の喜びの世界が、主イエスとともに到来する時であると語られています。
ですから終末は、キリストを信じる人にとっては希望の時なのです。

 マルコ13章13節に「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と書かれています。
この忍耐は、単なる我慢ではなく、「神様との信仰による交わり」から来る喜びが、私たちをどんな時も生かすのだということを知っていただきたい。

 また、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われた主イエスは、ここで「山に逃げよ」(14節)とも語られます。
「逃げてよい」と言われるのです。頑張って! 頑張って! ではないのです。
ユダヤ・ローマ戦争の際、教会はユダヤに逃れたと言われます。
私たちも逃げましょう! どこに逃げるのか、主イエスが示される場所にです。

 せわしい日々の中で、私たちは神経をすり減らします。
襲い来る試練に倒れそうになります。
主のお心に逃げ込もうではありませんか。

 弟子たちは、主イエスがゲッセマネの園でユダとローマ兵たちに捕縛されたとき、逃げ散るのです。
でも、その際の聖書の箇所を読んでみますと、主は自ら進み出て、彼らの盾になるようにして、こう言われます。
「私を探しているのなら、彼らを去らせてほしい」(ヨハネ18:9)。
主イエスが「逃げよ」と言われたのです。
彼らは逃げ、怯え、震えながら、それからを過ごします。。

 主は十字架の道をひとり進まれ、贖いを成し遂げられるのです。
そして、復活の日を迎えます。

 弟子たちはいつ、自分たちに追手が伸びるか、戦々恐々としているのです。
ですが、その恐れのただ中に復活の主は現れてくださったのです。
そして、十字架で傷ついた自らの手を広げ、わき腹をお見せになり、弟子たちに平安と赦しを語ります。
そして再び、弟子たちに自らに従うように招いてくださったのです。
24節を読むと、そこには一切の光が遮断されてしまっているのを見ます。
それは絶望的な光景です。
しかし、その時こそ、その中で喘ぐ弱き私たちを自らの元に招くために、栄光の主はおいでになるのです。

 神様の摂理は、ヨセフの困難な過去を信仰によって再解釈させ、ユダとその兄弟を悔い改めに導き、和解させるのです。

 弱く、逃げる私たちです。でもそれでよいのです。
世界の果てに雲隠れしているような私たちを呼び集めてくださるのです(26節)。「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだのである」。ただ一方的な無条件の愛が、弟子たちに注がれたように、現代の弟子である私たちにも注がれている。
なんという喜びでしょう。

この愛の言葉はけっして滅びず、私たちを救い続けるのです。 

茨の冠