熊本白川教会 月報 2 月号より

「教会とは何か」エペソ1:15∼23


 
 
教会の頭はイエス様です。そして、教会はキリストの体であると聖書は告げます。
教会のなかには、イエス様が満ち溢れておられる。このことを経験したく思います。
 
1.祈り
   
 使徒パウロは、エペソ教会の人々の 主に対する信仰と隣人であるクリスチャン達への愛を耳にします。現実は病を抱え、仕事を失い、貧しさの中にあっても、それに屈することなく生きる彼らの姿を憶え、主に感謝をささげます。(15~16節)そしてなお、彼らのために執り成し祈るのです。「知恵と啓示との聖霊が豊かに注がれて、神様を豊かに悟らせてくださるように」と。また知・情・意の統合体である「心」の目が明らかにされて、私達に与えられている希望がいかに豊かなものであるかを悟るように語ります(18節)。キリスト者はいつの時代も現実を生きています。どんな時代にも、人は力・富・名誉を求めます。するとそこに、争いや妬み、分裂が生まれてきます。そのようなものに翻弄されるのが私達です。しかし、先ほど語りました心の目が明らかにされるとき、現実を超える信仰的現実、霊的現実を悟ることが許されるのです。聖書は語ります。「この世の見えるものは過ぎ去るのだ。」と。栄誉・栄華を極めたソロモン王でさへ、この花一輪の美しさにも及ばない現実。キリスト者は、全てのものを導き、愛によりご支配される永遠なる神と、その力の現実を信じて行く時に生きる勇気が湧いてくるのです。祈り、それは永遠なる神様との交わりです。祈りこそがそれを生み出します。
 
2.偉大な神様の力
 
 19節∼には、力、エネルギーという言葉が多用されています。パウロが神様の力をどれだけ確信していたかが分かります。現実は、投獄という憂き目にあいながらも、彼の魂をそこに捕えておくことはできません。なぜなら「神様がその力を働かせて、イエス様を死人の中からよみがえらせなさり、ご自身の右の座につかせ、全ての権力や権威、権勢の上に置かれたからだ」(22節)と、人間の力では決して理解できない信仰的現実(霊的現実)を豊かに述べていることからわかります。そして、彼はこう続けるのです。
「全てのものを支配しておられるのはキリストであり、そのお方が頭として教会に与えられたのである。」と定義します。このことから、教会の頭は、主イエス以外に存在しないし、教会は主の臨在で溢れている場所であるということです。
ウェスレーは、キリスト者は欠けのある器であるから、神様の愛に満たされても恵みが漏れて行ってしまう。だから、瞬間瞬間、神の愛の基である聖霊に満たされていなければならないと。これは1つの真理です。ですが、主の満ち満ちた中に、我らはあることを聞きました。満々とたたえられたお湯に身を浸すように、底が抜けたバケツのような私達でも、主イエスの溢れる愛の中に身を浸すなら、もはや漏れるなどということはあり得ないのです。想像を超える愛の中に生かされていることをいつも覚えましょう。

 

神は愛です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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