熊本白川教会 月報 3 月号より

「思いを超えるキリストの愛」 エペソ3:14~21


 
 パウロはエペソ人への手紙を獄中から書きました。
しかし、囚われの身のでありましても、彼の心は囚われてはいません。
異邦人の伝道のために、キリストために繋がれていることを誇りにすら思っているのです。彼は囚われたからこそ手紙を書き、それが聖書となって残り、歴史上の教会を支えて来たのでした。
 神様はすべてを働かせて益として下さることがよくわかります。  
 パウロが囚われの身でしたもう1つのことは祈ることでした。
この14節で、「私は膝をかがめて祈る」書いています。
「膝をかがめる」とは、すべてのものを遮断して祈るということです。
主イエスは、「戸を閉じて、隠れて祈る」ことを教えられました。
それは物理的な遮断以上に、この世のあらゆるものを退けて祈ることを意味します。
 また、遜った姿勢でもあります。
しかも、「父の中の父であられる方に祈る」と15節で語ります。
現代は父権が力を失ったと言われていますが、パウロの生きたローマの時代、父親は権威を持っていました。
息子、娘が大きな罪を犯した場合は、「お前は死ななければならない」と言うなら、事実、そうなったと言うのです。
 しかし、ここでは行き過ぎた父権を持った父親像を描いているのではありません。むしろ、主イエスがお示し下さった「アバ、父よ!」、親愛の情をもって父親の腕の中に飛び込んでいく「パパ!おとうさーん!」のような愛溢れる豊かな父親像を書き記します。
 
 主の祈りの「天にまします我らの父よ」を思い出します。
すなわち、そのような方に祈るのだと教えているのです。
 そして、父なる神があなたがたの「内なる人」強くして下さるようにと語ります。「内なる人」とは心と理解しても良いでしょうし、「信仰生活」と解して良いとも思います。
 続いて、キリストの愛の広さと長さ高さ深さとパウロは描きだします。
この広さとは何でしょうか。
それは主の愛の寛容さを表しています。
最後の晩餐の席で主はペテロの足を洗い、最大の裏切り行為をするユダの足を最後まで洗いぬかれるのです。
 
また、長さとなにでしょうか?
英訳でlong sufferingと言う言葉が使われていますが、それは、長き苦悩、長き忍耐と訳せるものです。
主はどれほど忍耐をもってイスラエル民族を導き、彼の弟子たちを愛されたことでしょう。
そして、高さとは何でしょうか。
それは引き上げて止まない主の愛です。
風に翻弄されて漕ぎ悩む小舟に主は波の上を歩まれ近づかれます。
すると、最初は主を幽霊だと恐れる弟子たちですが、それが主イエスだと分かると「波の上を歩かせてみもとに行かせてください」とペテロは言うのです。
主が来なさいと言われるとペテロはそろそろと水の上を歩き始める。
ですが、風が吹き波が押し寄せると、それを見て恐れ波間に沈んで行くのです。
しかし、主はすぐに手を伸ばし彼を掴まえて下さいました。
そして、引き揚げて下さったのです。
 
 私たちは天の高嶺に翼を張って登れるものではありません。
すぐに、落胆し、不信仰を起こし、沈んでしまうものです。
でも、高き愛を持ち給う主は私たちを天の高嶺に至らせて下さる方です。
また、黄泉の深さにまで下って救いを完成して下さった方なのです。
主の私たちに対する愛は人間の思いをはるかに越えています。
この大きな愛に支えられ個人で祈り、教会(共同体)で祈り続けるものでありましょ
う。答えは必ず訪れます。