熊本白川教会 月報 4 月号より
「嘆きは歓喜へ」 ヨハネによる福音書20:24~
イースターを迎えました。「キリスト教は、十字架で終わっても(復活を言わなくても)十分ではないか?主イエスがあれだけ大きな愛を示されたのだから」と語った方がいました。
しかし、聖書は十字架の後に起きた「復活」という出来事を繰り返し語り、この復活こそが弟子たちを変えたのだと告げます。たとえ、復活を信じ難い、という多くの人々のつまずきの石になろうとも、教会は2000年間この信仰を抱き、宣べ伝え続けてきました。私達もこのすばらしい福音のおとずれを、薄めることなく継承し、語り続けて参りましょう。
嘆きのトマス
主イエスの弟子にトマスと言う人物がいます。主が死を打ち破り復活され、弟子たちに姿を現されたときのことです。トマスだけは彼らと一緒にいなかったと聖書は告げます。(福音書の著者ヨハネはのちに言います。”主は教会と共におられ、そのお姿を、教会の礼拝の中であらわして下さる。だから教会の聖なる交わりから離れないように”と。)しかしトマスは弟子たち(教会の交わり)から遠ざかっていた。それはなぜだったのでしょうか。主を裏切った悲しみに沈み、独りその痛手を癒したかったのかもしれません。そのトマスが、いざ弟子たちの所に戻ってみると、弟子たちは躍り上がらんばかりに「主とお目にかかった」と喜び告げるのです。「そんな事はあり得ない」という思いと「なぜ主は、他の者たちには現れて下さり、私には現れて下さらないのか」「忘れられた寂しさ」に心は震えます。そしてトマスは叫びます。「私は主の手に釘跡を見、そこに指を差し入れ、槍で刺し貫かれた脇腹にこの手を差し入れて見なければ決して信じない」と。まさに、徹底的な嘆きと不信仰の極みの言葉を口にせずにおれなかったのです。
愛をもって聞かれる主
「戸は閉ざされていた」が主イエスは入ってこられます。
聖書は語ります。主は戸の外に立って叩かれる。だれでも戸を開けるなら、このお方と豊かな交流ができると。しかし、この個所はそうではありません。主イエスが主体的に有無を言わさず乗り込んでこられます。そして、弟子たちに、「平安」を祈られるや否やトマスに向き直るようにして言われます。
「あなたの指をここにつけなさい。手を伸ばして脇に差し入れてみなさい。信じない者にならないで信じる者になりなさい」トマスが語った言葉をまるでなぞるように言われるのです。トマスの目には見えなくとも、実はイエスはトマスと共にいたのでした。主は彼の悲しみも孤独もつぶやきも聞き取っていて下さった。その上で、なお、「信じなさい」と声をかけて下さる。嘆きのトマスは「わが主よ、わが神よ!」と信仰告白する者へと引き上げられました。
イザヤ書49:15~16にこの様な言葉があります。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、手のひらににあなたを彫り刻んだ」。
主はトマスを忘れることなく、その手のひらの十字架の傷跡の中にトマスを彫り刻んで下さっていました。私たちも覚えられている。忘れられることはない。主イエスの救いの手、いまなお傷跡を残すその手は、私達に伸ばされ続けているのです。
イースターは嘆きが歓喜に変わる日であります。