熊本白川教会 月報 6月号より
「義人はなぜ苦しむのか」 ヨブ記1:20~23
ヨブは,その名前からへブル人ではなく、南エドムの人であったと言われます。時代的にはアブラハムと同時代ぐらいの人であったとも思われます。その姿が遊牧民であるからです。美しい文学作品に仕上げられていますが、神と人との真実な物語が紡がれています。
1.ヨブその「人となり」
へブル人にはその名前に意味があるのです。例えば、アブラハム(父は高められる)、ヨシュア(主は救い)の意味で、イエスはヘブル語ではヨシュアになります。しかしヨブの名前の意味はわかりません。けれど、ヨブが信仰者であったことには間違いはありません。「その人となりは完全」とは道徳的に罪なき完全ではありませんが、神様との関係において純粋であった、誠実であったことが記されています。続いて、「正しく」とあり、神様に信頼している姿が描かれています。ヨブの信仰は神様に対して敬虔であり、それは悪から遠ざかることに通じたわけでした。その神様の前における真摯な姿が認められ、多くの祝福を受けたのでした。
2.天上の出来事
突如として、神様とみ使いの会議の場面に切り替わります。サタンがその会議に出席しています。神様はサタンに誇りをもって言います。「ヨブほど完全で正しく、神を畏れ、悪に遠ざかるものの世にいないことに気づいたか?」。すると、サタンは答えます、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたがその家、所有物の周りにまがき(垣根)を設けて守っておられるので、その利益にゆえに、あなたを拝んでいるのです。そのまがきを取り払い、所有物を打って御覧なさい。あっという間に神を呪うでしょう!」と。所詮、人の持つ信仰などそんなものだとサタンは言うのです。ご利益宗教、日本人の愛する宗教像です。主体は人間なのです。幾らでも場面場面で着ぐるみの人形のように宗教を取り換えて行く。そこには、宗教性、信仰の深みを見ることはできません。まさに、永遠など考えない現世利益のみの底の浅い信仰の姿です。私たちはそのようでありませんように。 神様は、ヨブを試練に会わせる許可をサタンに与えます。ヨブは未曽有の試練に遭遇します。
3.栄光は主に!
次々に襲い来る試練。所有物が遊牧民たちに次々と略奪され、使用人たちは殺されていきます。落雷に打たれ、竜巻に襲われ、あらゆるものが奪い去られて行きます。最大の悲しみは、愛する息子・娘の命も消えたということでしょう。ヨブはどう試練を受け止めるのでしょうか。私たちなら、発狂してしまうのではないかと思います。ヨブは立ち上がります。そして、上着を裂き頭を剃るのです。これは、激しい悲しみと怒りの表現です。しかし、彼はその激しい憂いを抱えながらも神様の前にひれ伏すのです。その姿は礼拝者の姿です。祝福も試練も関係ない。神様は神様であるゆえに礼拝する。「わたしは裸で生まれてきた。また、裸でかしこに帰ろう」 すべては神様のものであり、わたしのものはないのだ。わたしは塵に帰りゆく存在にすぎないと全能者のまえに膝まづき「主の御名はほむべきかな!」と神様を讃えるのです。見事な信仰です。ですが・・・。次回へ。