熊本白川教会 月報 7月号より

「わたしをあがなう者」 ヨブ記19:25~27


 

 

一生とは長いようで短いもの、ですから人は ”自ら生きた証しを残したい”と、本を出す、写真を撮り、言葉を綴り、ネットにのせるなどして、その足跡を記すのかもしれません。また試練の日にはそれを乗り越えるため、一生懸命 解決の努力をします。道を探し求めます。まずは自分が行動しなければという人もいるでしょう。しかし、真の解決は外からくる。すなわち、生死を越えた神様から来るのです。本日も共にヨブ記から神様の御言葉を聴いて参りましょう。

 

 

1 友人の言動とヨブの思い                         激しい試練に会うヨブを慰めに来た3人の友人、エリパズ、ビルダテ、ゾパルは、ヨブのあまりの惨状に言葉を失い泣きます。しかしそれも過ぎると、今度は人々の誰もが持つ”因果応報の論理”をヨブにぶつけて議論になるのです。因果応報、それは「ヨブが罪を犯したらからこのような悲劇(財産の喪失、子供たちの死など)に出会っているのだ。だから、心から罪を悔い改め、神様に立ち返れ。」ということです。しかし、ヨブは自分の若き時の罪の自覚は持ちながらも「こんな大きな悲しみを経験するほどの、そんなに重大な罪は犯していない。」そう彼らに挑むのでした。ヨブは友人に理解されないことを嘆きます。けれどその議論の中で、”幸い”も”災い”も神様から来ることを思い、究極の解決は神様からの答え以外にない、という結論に思い至るのです。苦難の中で神に出会いたい、ヨブの信仰の終着点はそこにありました。

 

2ヨブの信仰のひらめき(私を贖う者)

 

懸命に祈るヨブの姿がそこにあります。その中で暗闇に火花が散るような、信仰のひらめきに捉えられるのです。ヨブ記16章18節~21節において、ヨブは言うのです。「わたしの証人は天におられる」保証して下さる存在、弁護して下さる存在への言及、17章3節では「あなたが保障となられるように」とあります。子供達、築いた財、健康、妻、友人、全てが去りゆき・・・それゆえ彼は、自分の人生を裏書きして下さる神様を求めます。そして更なる展開、「わたしは知る。わたしを贖う者は生きておられる。後の日に必ず地の上に立たれる」(19:25)と。「贖う者」とは、解放者、保証し弁護して下さる存在を指します。「地の上に立たれる」とは人として人間のかたわらに立って下さるということです。まさに主イエスキリスト、メシア誕生への道を開く聖書の箇所といえるのです。主イエスこそ解放者、弁護者だからです。マルチン・ルターは、ここを「死後の復活」と理解し、訳しています。「しかしわたしは知っている、我が贖い主は生きておられる。彼はわたしを、後に地から起こして下さるであろう。その後わたしは、わたしの皮をまとい、わたしの肉において神を見るであろう」と。ヨブは自らの肉体がボロボロになり、たとえ死んでいったとしても神様は復活させて下さると信じたのでした。ここに「復活への信仰がひらめく」とルターは言うのです。ここに、「ヨブ記の希望」を見ることができます。一生掛けても解きがたい難題があります。その時、味方として神の御子イエス様を思うのです。病み、衰え、死すとも、必ず、復活させ、涙をぬぐい、新しい体を下さる神とであい、この目で見ることができるとヨブは信じました。人生が涙で終わり、謎だらけに終始したとしても、繰り返しますが、贖い主イエス様がおられる、このお方が私たちの手を固くとって、「恐れるな!」と言われるのです。ゆえに信頼し、自らを委ねて行くことができる。ヨブに、私たちに与えられるのはその信仰なのです。

閃き