熊本白川教会 月報 8月号より
「系図に含まれる意味」 マタイによる福音書1:1~17
私たちが最初に新約聖書を開きますと、このカタカナだらけの系図にぶつかります。読む気が失せてしまいます。しかし、この主イエスの系図の中に、実は豊かな意味が含まれています。聖書に聞き耳を立てて参りましょう。
1, 旧約無くして新約は無し(正典)
新約は全部で27巻ありますが、その中で一番古いものはパウロの書いた「テサロニケ人への手紙第一」です。福音書では「マルコによる福音書」だと言われます。それなのになぜ、「マタイによる福音書」が冒頭に来ているのでしょう。それは、聖霊に導かれて新約聖書を記した人々が、”旧約聖書に預言されたことごとが、主イエスによって実現(成就)した”と言いたかったからなのでしょう。また、旧約聖書と新約聖書の連続性を述べたかったのだと思います。
第2次大戦中、ナチス・ドイツの勃興により、「ドイツ・キリスト者運動」なるものが起きました。ゲルマン民族の神話と新約聖書を融合させ「反ユダヤ主義の政策」を生み出しました。そして旧約聖書を排除したのでした。キリスト教会の多くがヒトラーの前に身をかがめたのです。しかし、カール・バルトやボンヘッファーを中心とする「ドイツ告白教会」が形成され、ユダヤ人たちを擁護し信仰を守りました。
日本でも昔、日本の神話と聖書を融合させようとした日本的キリスト教なるものがあります。また現在の中国では一時期「地下教会」が認知されつつあったのですが、習近平が主席になって以来、共産思想と聖書を融合するようにと教会が圧力をかけられていると聞きます。
これらのことからわかるのは、 旧約あっての新約であり、新約あっての旧約なのです。そこに、私たちの信仰の土台としての正典(信仰のものさし)があるのです。これを正しく認識しなくてはなりません。
2,罪人に開かれた救い
アブラハム、ダビデと系図は書き始められます。「信仰の父」、「信仰の王」と称えられる両者ですが、愚かにも罪を犯すことが旧約聖書に出て来ます。アブラハムは神様の約束が信じられずにハガルを召し入れ、イシマエルをもうけます。これが後のアラブ(イシマエルの子孫)とイスラエル(イサク)の確執の始まりです。また、ダビデは人妻であるバテシエバを奪い、その主人であるウリヤを殺すのです。そのことが後のダビデ家の悲劇を生みます。
また系図に登場する4人の女性たち、タマル(3節)は売春婦の姿で義理の父ユダを誘惑します。ラハブ(5節)はイスラエルが約束の地を取るためにエリコでスパイとみまがう働きをしますが彼女も売春婦です。ルツ(5節)は信仰の人でしたが、イスラエルから見るなら彼女は異邦人です。そして、先ほどのウリヤの妻であるバテシエバ(6節)は、ダビデの不倫と殺人の共謀者です。主イエスの系図であるにも関わらず、そこには人間の悪と欲望と罪がうごめきあっているのを見ることができるでしょう。マタイはあえて系図を美しく飾りません。人間の罪を赤裸々に描きます。しかし、愛の神は彼らを憐れみ、救おうとされるのです。それが主イエスの到来によって完成します。罪人の只中に来られ、罪を赦し永遠の命を与えようとされる神、主イエスの深き愛を思わされます。
わたしたちがいかに罪深くとも、神の愛はそれを貫いていくのです。感謝!!